2014/02/21 スマホ用に下の正方形のGifアニメにコンテンツ画面へのリンクを入れた
リンクのいくつかは2014年現在で現存しているかどうか不明

nude_girl_200x205.jpg

2013/11/05 オートメックスに増補 10/0503 本文改訂 新しい情報はないが、増補 といったらいいでしょうか。09/11/13 サーバーレンタルの容量制限でコンテンツのいくつかを削除、残念ながらBBSは中止した。
サイトの開設から約十年、このレンタルサーバの利用は8年目くらい。わずかな料金だが、更新しないことにした。
下のバナーは、今となってはレトロなGIFアニメだ。雲の部分もアニメーションにしたかったのだが当時の通信速度ではきれいに動かなかったのである。 このサイトは画像や資料のあるものはリンクされ可能な限りデータと画像が掲載されているが、新しいデータが入った場合更新時におおきく内容が変わることがある。
だが、 リアルタイムで更新、改訂されていくのは活字媒体がなしえない便利な部分と考えている。
03/11/12↑04/01/26 ↑2004-12-.02↑04/03/01 ↑ 05/07/10↑ 06/06/07 07/06/15 08/05/28  
09/06/28 リンクなどの改訂、句読点とか通読しておかしな言い回しなど一部書き直し。差分はこのスクリプトの構造上無し。そして以下より「ですます調」。

ミランダのデザインに見られる天空と天体のイメージ

_MG_2216.jpg創業者、荻原 彰 はロケットエンジン開発に携わった科学者で、天体マニアでもあったと言われています。そのせいでしょうか、ミランダの中には「天体」を思わせるイメージが隠されていました。
そのいくつかをピックアップしてみましょう。

ミランダの命名の由来とパッケージの由来

白い雲が浮かぶ青空から紺碧の星空へ、これはロケットの窓から見た成層圏のイメージでしょうか?
そして、SENSOREXにみられるシンボリックな星のデザイン・イメージにも注目してください。(“南十字星をシンボライズした”と書かれたものもありますがメーカーの関連する資料では根拠は未発見)

ミランダの命名の由来は、ミランダ発表時の荻原 自ら執筆の写真工業誌の記事によると、「なんとなく(語感がいいから)」とあります。
荻原 はミランダと天文の関係を明示したことはありませんでしたが、しかし、ちょうどその頃太陽系の天王星に新たに衛星が発見(1948 年)されていました。
その衛星の名はMiranda、おもしろい偶然です。

探査機ボイジャー2号が送ってきた衛星ミランダの映像によれば、とても独特で奇怪な表面をもった実にユニークな天体だったのです。
地上から発見された天王星の衛星は、チタニアとオベロン(1787年)、アリエルとウンブリエル(1851年)と、この奇妙な地形を持つミランダ(1948年)です。ミランダの発見以降、残りの衛星はすべて探査機ボイジャー2号(1985年〜1986年)により発見されました 。
天王星の衛星のミランダはシェークスピアのテンペストの主人公、ミラノ大公プロスペローの娘の名からとられています。

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ミランダ研究史

ミランダカメラ研究史

1982
この年の朝日ソノラマ刊 カメラレビュー クラシックカメラ専科誌で特集された日比 孝 の“ミランダカメラのすべてとその歴史 ”から始ります。
それ以前にはミランダが体系化された記録はありません(しいて言えばミランダのファミリーツリーを使った広告があるくらいでしょう)。最初に体系的にミランダの全貌を著した資料として、世界中のミランダ研究に非常に影響力があった記事です。

翌号から高島 鎮雄“体験的 一眼レフ進化論 15 ミランダとその周辺”、白井達夫“幻のカメラを追って 7 フェニックス”、萩谷 剛 “フェニックス発見さる !! ”と立て続けにミランダについての重要な記事が発表されています。

それから10年ほど経って、田中長徳 の日本カメラで連載“銘機礼賛”でミランダCとTが取り上げられました。
名機礼賛のなかでも大変印象的なエッセイで、この一遍から初めてミランダが気になり始めた人も多かったのではないでしょうか?以降、散発的にカメラ雑誌各紙に記事が見られます。

1998
学研の雑誌、CAPA別冊 カメラGET! 三宅 岳(山岳写真家)
長野県池田市の工場跡のレポートと、すでに建物は無くなっていましたが、狛江市の本社跡レポートが掲載されました。当時はまだまだミランダがあまり市場に出回っておらず、ある種幻の中古カメラであったこともあり、跡形も無い狛江の跡地、山の中の廃工場跡に残された謎、などなど。これは大変印象深い記事でした。
この他、CAPA別 冊 カメラGET! では島田 和也 がミランダを度々取り上げていました。

この頃には「カメラレビュー」日比 孝の“ミランダカメラのすべてとその歴史 ”が絶版からすでに20年経っており、古本も高価になり手に入れにくく、簡単に見ることが出来なくなっていました。

2003
ミランダに関する記事は若干のインタヴァルのあと、2003年に突然「カメラスタイル」誌でミランダに関するインタビューと珍しい写真が掲載され、次いで朝日ソノラマ刊 カメラレビュー クラシックカメラ専科 No.64 に巻頭でミランダ特集が掲載されました。

カメラスタイル No13 ガンダーラ井上 “ミランダを創った男たち”では、販売に関わったミカミ、ミランダの設計をした大塚新太郎の最新インタビューなど興味深い記事が多く掲載されていました。

奇しくもカメラスタイルのあとを追うように出ることとなってしまった、萩谷 剛 クラシックカメラ専科 No.64 “ミランダの系譜”では、今まで知られていなかった関係者の名前や関係性が詳細に書かれています。(ミランダカメラの社員集合写真は両紙で掲載されていますが、良く見ると異なるカットなのです!)
このクラシックカメラ専科では20年ぶりにミランダのほぼすべてのモデルとレンズ、試作品などが掲載されていますが
残念だったのは日比 孝 による“ミランダカメラのすべてとその歴史 ”にあった「カメラの生産年度とタイプ別年表」がありませんでした。
なお、この記事では ミランダ-Tのファインダー視野率が明確に書かれており、96%となっています。

次いで、同年 学研 豊田堅二 著 CAPA特別編集 カメラGET! スーパームック 11 “入門 金属カメラオールガイド”
国内で販売、または発表が確認されたと思われるミランダの一眼レフがすべて写 真掲載されています。このムックでは当会でも協力させていただきました。
“入門 金属カメラオールガイド”はミランダの各種モデルをカタログ的に見る事が出来る素晴らしい本です。
しかし、 スペックの記載にあまりにも誤記が多く、資料としては問題があります。各機種の説明文は素晴らしいのでこの点が残念です。

2004 09/25
カメラレビュー クラシックカメラ専科 No73 山下浩樹 "クラシックカメラの使い方"、"国産初のペンタプリズム式一眼レフ ミランダT/センソレックス"
クラシックカメラの使い方、という特集の通りそれぞれの使い方が解説が掲載されました。 執筆は本サイト主ですが気がちいさいので誤記があるんじゃないか?と戦々恐々であったそうな。

2006 01
写真工業 Vol64 No681 根本泰人 "ミランダ T"
早田カメラで修理されたオリオンミランダとズノウのセットについて書かれたもの。目新しい部分としてはミランダの名称について解説が有り、ラテン語の感心な女の子の意とあります。

(敬称略)

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国産初のペンタプリズム一眼レフを造りだしたベンチャー企業

ミランダは若き航空工学の研究者が創ったカメラ #1

ミランダカメラの説明の前に、まずミランダの前進、オリオン精機産業有限会社について述べなければなりません。
オリオン精機産業有限会社は、荻原の、今でいうところのベンチャービジネスで当初は東京、国分寺にあった屋敷からスタートし、後に小田急線の経堂にほど近い宮ノ下(*注)にあった実家に会社を移したようです。
世田谷線沿線の宮ノ下界隈であれば、行く先によっては小田急線経堂駅を利用することもあるでしょう。
雑誌でみられた「オリオン精機は経堂にあった。」等の引用は、取材時または書き手の勘違いと思われます。

ミランダカメラの創業者、荻原 彰(1920-1992)は、東京帝國大学 航空学科から海軍へすすみました。
海軍での荻原 はエンジンの研究開発に携わります。
東京帝國大学工学部 航空学科は当時国内唯一の航空工学専門の学科でした。
選りすぐりの学生が集まる東京帝國大学のなかにあって、年に9人(*注)しか取らないという少数精鋭教育の学科でした。
戦時下、出身者のほとんどは重要な軍需産業であった中島飛行機、三菱重工などへ進みました。

終戦直前、荻原 は最期の決戦兵器の製造を終えたばかりでした。この決戦兵器は1945年に決議された全軍特攻化に向けて開発された有人パルスジェット機梅花で、陸海軍はその全予算をこの特攻機に充てることになっていました。我が国は体当り攻撃、カミカゼに未来を託すことに決定したのです。

1945年8月、我が国は敗れ国土は連合国軍に占領されました。幸いにも日本軍の最終兵器の梅花は使用されることはありませんでしたが、占領軍によって日本の航空機関連、ジェット、ロケットの研究は禁止され、それらの研究機関は閉鎖されました。
*帝国大学航空学科も閉鎖されました(1954年(昭和29年)に再開)

このため日本は、航空機、特にジェットエンジン、ロケットの分野は世界のレベルから大きく後退させられることを余儀なくされました。
戦争に負けて専門分野の道が閉ざされてしまったこと、破滅的な兵器の開発をしなければならなかったこと、がらりと変わった戦後の国土、様々な出来事が若き航空工学研究者の人生観に影響したことは想像に難くありません。
荻原は除隊後、軍関連の仕事を始めますが、心に期すものがあったのか、好きな絵と写真に関わるカメラの事業を新たに興すことになりました。
それがオリオン精機産業有限会社で、後にミランダカメラとなる会社です。
(敬称略)

オリオン精機 からオリオンカメラ、そしてミランダカメラへ

ミランダは若き航空工学の研究者が創ったカメラ #2オリオン精機産業有限会社

起業の傍ら研究者としても東大第二工学部に戻りましたが、まだ航空関連の研究は禁止されており、そこでカメラ製品を作り出していました。
終戦から3年目の1948年頃、オリオン精機産業有限会社では報道用カメラ、機材の改造などを手がけており改造のための設計、特許取得を主にしていたようです。
会社名は、荻原が自分の子供たちと同じように天体にちなんだ名前、星座のオリオンの名を冠して“オリオン精機産業有限会社(1948-1955)”と名付けられました。
オリオン製品の製造には八州光学の顕微鏡製造の協力工場があたり、当時カメラ修理の第一人者であった貫井定吉と、当時、銀座の松島眼鏡店にカメラ店を構えていた三神の協力で事業は順調に発展して行きました。
そもそもカメラが好きで始めた事業であり、オリオン精機ではユーザーのオーダーに敏感に応える“こんなものがあったらいいな“を具現化した製品を我が国の最高峰の頭脳が 設計し、加えて優れた技術者が製造していました 。
技術力、発想ともにオリオン製品は当時の四畳半メーカーや町工場の製品とは一線を画していたと言えそうです。

東大第二工学部研究室時代以降、大塚新太郎 (名古屋大学名誉教授 元工学部航空学科原動機講座) (1921-2005)がパートナーとなります。

余談ですが、ヤシカの一眼レフ開発、技術部長・常務を歴任した菅谷博士は東大第二工学部で荻原にカメラ設計(主にフォーカルプレーン・シャッター)の指導を受けていたという話です。

大塚は、初期のミランダの設計およびコンタックス/ライカのマウントに互換性を持たせた「カプラー」を開発しました。最近になって「カプラー」はまた造られ販売されていましたが、オリジナルはオリオン精機の製品です。
同様の製品は英国製、ドイツ製に同様のものがありますが、オリオンカプラー以降の製品と考えられています。
また、オリオン製カプラーはゾナーを無限遠から距離計に連動し、外爪バヨネットも完備しておりコンタックスマウントの広角レンズ、望遠レンズもライカ距離計に連動させており性能、精度ともそれらを凌駕しています。
このカプラーは少量の生産であったといわれ、ミカミ、貫井ラボでも販売されていたようです。
このほか、ライカをレフカメラとして撮影可能にする「ミラックス」とベローズ「フォカベル」、ミラックスを正像にするペンタプリズムの開発など、機能的で画期的な製品が生み出され好評を得ていました。
しかし、荻原の目標は夢のカメラの製造でした。

1954年に、いよいよプロトタイプ一眼レフ「フェニックス」が、実際に作動し撮影できるカメラとして製作されました。これがカメラ産業界に向けての大きなアドバルーンとなってミランダの製造へと繋がっていくことになります。
当時この分野では、個人の発明家から大企業までが日本で最初にペンタプリズム一眼レフを出すことにしのぎを削っており、毎月のように試作品が新製品のニュースの片隅にありました。
しかし、発表されたものの多くは机上のアイディアに終わるものやモックアップのようなものであり、実際に製造されたとしてもワンオフの試作品ばかりで一向に具体的な製品が現れず、製品化されないペンタプリズム一眼レフは「お化けとペンタプリズム一眼レフは同じもの」「 何故ならホントに出たことが無い」などと揶揄されるほどでした。
このような状況であったので実際にフェニックスが製品化され、「ミランダ T」として販売されたときはたいへんな驚きと歓迎をもって迎えられ、ミランダTは華々しいデビューを飾ったのです。

昭和三十年代の雑誌企画でカメラメーカー社長を集めての座談会で荻原は
『企業として(ペンタプリズム一眼レフを)日本で最初に出すことが肝心だった』と、当時の熾烈な一番乗り競争時代を振り返っています。
(敬称略)

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販売に苦戦したミランダ

ミランダを売る #1

銀座にある松島眼鏡店、この2階は最近までニコンサロンでしたが、もとは松島眼鏡店写真部(カメラ、用品の販売店)というカメラ店がありました。このカメラ店を経営していた現「ミカミ」(特殊カメラ機材メーカー)は早い時期から荻原のオリオン製品を取り扱っており、ミランダという新型カメラの計画にも熱心に耳を傾けていました。
この時期のオリオン製品にフォカベル(FOCABELL)という名称のベローズと、ミラックス(MIRAX)と言う名称のレフボックスがあり、フォカベルオリジナルのマウント(後のミランダマウント)から各種カメラのマウントがオーダーすることが出来、また、アクセサリーのマウントアダプターでほとんどのカメラに使用することが出来るというものでした。
このマウントとマウントアダプターがそのままミランダマウントに転用されました。
オリオン精機ではカメラ製造への準備が少しずつ、着々と進んでいたようです。

guarantee.jpgミカミは、一時ミランダの国内販売元にもなっていましたが、ミランダが三越などにも置かれるようになると「ミカミのような小売店が発売元では困る」といわれたという話が1982年の朝日ソノラマ刊 カメラレビュー クラシックカメラ専科誌に見られます。
その後の経緯はよく判っていないのですが「リコー三愛グループ」の創始者で戦後日本を代表する産業人、市村 清の鶴の一声で、全国に広がるリコーの販売チャンネルでミランダが販売されることになりました。荻原が市村 清に気に入られたためといいます。
1958年のミランダBの広告ではたしかにリコーが販売しており、堂々とした一ページ広告がよく見られます。古いカメラマニアにミランダの話をすると「あー、リコーで売ってたカメラね〜。」と、遠い目をされたものです。
しかし、せっかくの全国展開もわずか1年足らずで消滅し、さらに1960年にはミランダの国内販売自体ストップしました。
「輸出に専念するため」というインフォーメーションが出されただけで突然日本人の前から姿を消したミランダ。結果、大手メーカーの繰り出す新製品攻勢のまえにミランダはひとたまりもなかった。カメラユーザーからすっかり忘れ去られてしまいミランダは倒産したと思われていたという。この経緯はリコーが販売する事になった以上に謎のままなのです。

しかし、ミランダの成長は止まっていませんでした。1960年には全く新しいオートメックスというコニカFに匹敵するスペックの新型が発表され、やはり完全に新型のミランダDが海外でのみ発売されています。
1964年からは国内での販売が再開されますが 、一般ユーザーにとってはミランダT 発売時のようなインパクトも魅力もすでに無く、ミランダは国内の販売が停止した1960年に事実上日本のマーケットから消されたようになっていました。しかし、ミランダは少ないながらシェアを確保していました、高級機には手が出せないユーザーにとって、ミランダは現実的な希望の星だったからです。
それでも 国内では国内販売の停止から四年後に、ミランダに悲願のレンズ自製工場が完成し、製造のコストダウンと大量生産化も達成し一段と飛躍をとげました、が、この事が内なる敵を呼び起こす事となったのでした。

ミランダを売る #2 ミランダが売られる!?

1968年、古くからミランダを販売していたA.I.CことALLIED IMPEX CORPがミランダカメラの株式取得に動き出し、翌年1969年にはA.I.Cが100%経営権を握り、創業者の荻原はミランダを失いました。
1963年から始まったレンズ内製化の実現でミランダはさらなる利益率向上が見込まれ、つまりミランダカメラは以前よりもずっと儲かる会社になったのでした。
友好的な立場から買収が行われたのか敵対的買収が行われたのか?それは不明です。が、利益が出るようになったとたんミランダはA.I.Cの会社になってしまいました。
A.I.Cはミランダの経営権が移ったその年、早速ドイツにソリゴール社を設立しました。
そしてこのわずか7年後、A.I.Cによる買収劇はミランダカメラを倒産させて幕を閉じます。

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(敬称略)

ミランダの魅力とは何でしょうか?

ミランダの魅力

ミランダTは、戦後が終わったと宣言された1955年に販売された一眼レフです。戦後の国産カメラ黎明期のメーカーのひとつですが、試行錯誤といえるような部分もあまり無く、ある意味面白味に欠けると感じるほどの完成度をもったカメラでした。
当時、国産のペンタレフ(いわゆる一眼レフ)が待望されていた事もあり、当時の新し物好き達はこぞってミランダTを手にしたようです。
ミランダTの価格*1は当時の総理大臣クラスの俸給の半分くらい。単純に比較出来ませんが平成19年の総理大臣の推定月収は335万円でした。
それほど高価なカメラでしたが、画家の岡本太郎をはじめ、新しい表現方法を探るカメラマンに広く愛された様子が当時の雑誌など様々な文献に残されています。

かつてミランダは「設計、技術のミランダ」と呼ばれた時代もありました。しかし残念ながら「国産初のペンタプリズム一眼レフ」ということ以外、性能について真面目に語られたことは非常に少なかったと言えます。それどころかパブリックイメージとしてのミランダはどちらかというとネガティブな評価も多かったのではないでしょうか?

「よく故障する」という風評は販売されていた頃には出て来ない話で、1990年代のクラシックカメラのマニアの間にあった風評と言えそうです。
アサヒカメラに連載されていた「Dr.オグラの写進化論 」*2の一遍にあった、若き日のDr.オグラが滞米中に出くわした、つぎつぎ壊れたミランダのエピソードがこの風評におおきく影響したかもしれません。
しかし、現代に生き残っている大半のミランダがメンテナンスも受けずに撮影可能な状態であり、ミランダの全ての機種のペンタプリズムは50年を経ても黒く腐食したものがほとんどありません。
もちろん経年による機関の不調、故障は無いわけではありません。ですが、同時期の同じクラスの大衆機も同様に故障がちな事は忘れて欲しくないところです。

注釈
*1
日銀のHPで、 教えて!にちぎん/昭和40年の 1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?というページでは企業物価指数を用いて物価の比較をしている。それによれば平成20年の物価は昭和30年のおよそ2倍である。
57000円で売り出されたミランダTは、現代では114000円ということになり国産カメラの値段として妥当なところではないだろうか。
今のお金でいくらでしょう?という問いの答えは、この他そばの代金、米価、公務員の初任給などなど物価を計る物差しでずいぶん変わるのだが、昔のものの値段を現代に置き換えるのは大変難しいのである。
ちなみに、同じ時期のキヤノンのフラグシップ、キヤノンVTの50mmf1.2付きの価格はまさに総理大臣の月収とほぼ同じであった。

*2-Dr.オグラの写進化論 (朝日新聞社刊 「カメラと戦争」"ああ、全数欠損、輸出カメラの記憶"

レンズの魅力

最初のミランダ、ミランダTにはズノウ5cm f1.9の標準レンズと、高解像の接写レンズとしても使える 10.5cmf2.8中望遠スープリームだけがカタログに用意されていましたが、ミランダには約600種類のレンズが利用(ママ)出来ました。短いフィルムディスタンス(フランジバック)と大口径レンズマウントによって、他メーカーのレンズが利用できる構造に設計されたミランダにはカメラのレンズマウントに各種変換アダプター(カプラー)を接続させることで、レンズ群のシステムを作るスタイルでした。
まだカメラメーカーでレンズを自製するところはそう多くはない時代のこと、既存の一眼レフであるエキサクタ、アルパ、ウィルジンにならったものかもしれません。

ミランダ1台あれば世界中のいろいろなマウントのレンズが使えというのもミランダの魅力のひとつですが、ミランダ専用のレンズ群もなかなか魅力的なラインナップです。

既に述べているように最初に採用された標準レンズのメーカーは世界でもっとも明るいレンズ*1を生産していたZUNOW [ズノウ]です。
最初のラインナップである 5cmf1.9は当時としては大口径高級レンズのスペックで、ミランダ専用のオリジナル設計でした。ライカマウントもごく少数作られたため誤解を生んだようですが、5cmf1.9はミランダのためのレンズであり、販売されませんでしたが5cm f1.3もミランダ用として計画されたようです*2。もしかするとミランダから購入を打ち切られた事でミランダへ販売されるはずだったがレンズが余剰品となり、ライカマウントとしてレオタックスと抱き合わせて売られたのかもしれません?

神武景気と呼ばれた好景気の時期ですが、その揺り返しがおきたのか?庶民には好景気の見返りがなかったのか?カメラは売れ行きが思わしくなかったようで他社ともども相次ぎスペックダウンや値下げ、低価格化がこの時期多くみられます。高価なズノウがカタログから外されたのもあながち関係ないわけではないでしょう。ズノーの後を受けて、ソリゴール、アルコなどが採用されましたが、ソリゴールはズノウを元にリニューアルされたもののようでスペックは同一です、またアルコは同社のアルコ35の5cmf2.4をミランダ用に転換した廉価タイプといったものでした。

しかし標準レンズにはズノウと同じスペックは存続されました。短期間プリセット絞りタイプのオフナー、フジタ(ソリゴール)製の標準レンズがみられますが、ズノウのあとを受けて新規に設計された新しい標準レンズにはまさに新型と言った機構が組み込まれる事になりました。
この新型レンズには、旧海軍工廠ゆかりの高い技術力と高い解像力をイメージ戦略に用いて名を馳せたコーワ・プロミナーが採用され、スペックはズノウと同じく5cmf1.9ですがシャッターに連動した絞り込み機構を備え、わずかの期間でしたが他社に一歩抜きん出た機構を備えていました。
自動絞りは試作機フェニックスからの懸案で、旧態然とした絞り込み測光から、念願の自動絞りに進化したレンズでした。
この時代には5.8cm f1.5の大口径レンズを頂点とした多彩なコーワ製レンズ群がカタログを彩っています。
この時期よりミランダのレンズはSoligor Mirandaの名が記され、デザインも統一されることで自社製造のようにカモフラージュされました。

その後、自社でのレンズ生産も開始されますが、オートミランダ銘に変わってからも交換レンズ群にはレンズグルメがワクワクするような名前が出てきます。
メーカー名は表示されませんがタイカ(後のタムロン)、リコー(富岡)、ノリタなどのメーカーが製造した多種多様なレンズがラインナップされており、いままで描写で評価されていなかったミランダのレンズの多くは、実はマニア、コレクターに人気のあるメーカーが製造したものだったわけです。

レンズメーカー各社のOEMであるソリゴールもミランダのシステムの一部です。ソリゴールのミランダマウントレンズはミランダ純正より若干安価に設定されていました。
初期のソリゴールレンズの多くには後のTマウントの原型と思われる交換式のマウントが採用されています。これらはTマウントとは互換性はなく、レンズごとにマウントの規格も異なり、そのような旧タイプのソリゴール同士も互換性がありません。
Tマウントは現代でも利用されている互換性の高いマウントです。 ミランダの前身、オリオン精機ではマウントのユニバーサル化に熱心だった事なども考えるとなかなか興味深いものがあります。

なによりも、アサヒフレックスにつづき小型一眼レフの先鞭を切ったミランダは、現代に於いても主流を占める一眼レフカメラというマーケットを切り開いたカメラだった、というのが一番の魅力ではないでしょうか。

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*1 世界でもっとも明るいレンズ=1955年当時、 汎用市販品として。*2 ズノウ5cmf1.3(出典:写真サロン)

MIRANDA LINK RING

世界中のミランダ・サイトです。(2014年現在で現存しているかどうか不明)

| The Miranda Historical Society (MHS) was established in 1986 Miranda Historical Society |

ビルと彼の父のミランダの楽しい小さなページ | Bill's Miranda Camera Page |
カメラクェスト:オリオン/ミランダのリポートでは重要なサイト。| miranda orion by Camera Quest |

M.H.Sについて

[1998年、最初の創設者Tom Surovek とミランダエンスージァストはヨーロッパでMiranda Historical Society (MHS)により定期刊行のNewsとウェブサイトを確立した。]
MHSは現在、活動は活発ではないかも知れない。更新は02/05/08 現在、Last updated: 11/28/01-06/04/03、しかし、メンバー交流は盛んなよう。
ニュースレターは86/8/25-93/12/25まで手元にありA-4サイズのゼロックスで総重量 800g、数百ページに及ぶ。


Friendship

Camera OasisTopcon CLUBhaluox.comOmocame world 齋藤秘密研究所帝國光学研究所激ペン
インドノクルマトミランダカメラ and M.H.S

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