02/05/30 Last up date 13/10/09 -

ミランダのプロトタイプ - Phoenix 1954年 春に完成した国産初のペンタプリズム一眼レフ。

*これは珍しい!ズノー付きのフェニックスの写真


本機は1953年11月に設計が開始、翌年1954年3月に完成した。
わずか5ヶ月で実写可能モデルを完成したというのであるが、この超特急のスピードには理由があった。
一眼レフ開発競争が激しい当時の事情から「とにかく最初に出さなければならない!」という大命題があり、出資者を募るためにも世間の耳目を集める派手なデモンストレーション用の実機がなんとしても必要だったのである。
四畳半メーカーや市井の発明家がこぞって『夢の一眼レフ』を目指していた時代。試作機が発表されては消えていった時代である。
まず動く現物が無くては話が始まらない、ヒトも金も集まらないよ。という理由だったのである。

フェニックスの製作には、申し分のない技術力と、とくに設計には日本有数の頭脳があたっているわけで、先に書いたようにわずか5ヶ月で説得力のあるカメラが製造できたのである。
なお、後に出たカメラ雑誌での対談企画でも、ミランダの成功について『最初に出す事には非常に意味があった。』と荻原は語っている。

ただし完成を最優先としたため、当初計画にあった大口径レンズ搭載のクイックリターン機、という構想から大幅にスペックダウンしてシンプルな構造でまとめたのがフェニックスであった。

レンズの玉とシャッタードラム、シャッター幕など、いくつかのパーツは既存の製品を利用しているが、フォーカルプレーンシャッターの機構、構造とも、すべてオリジナル設計でボディー筐体もオリジナルである。
私は青図を見せてもらって確認している。
現在まで広く信じられ、カメラ雑誌の記事として残る「アサヒフレックスのボディーを流用した」というのは書かれたときに筆が走ったか勘違いの誤解とおもわれる。
もちろんアサヒフレックスが参考にされたのは間違いないだろう、当時、レフレックスカメラは数種類しかなかったのだから。
だいたい、もしそのようなでっち上げの寄せ集めの代物であったら出資者を募る事など出来なかったであろう。

なお、レンズマウントはミラックスやフォカベルに使われていたオリオンのオリジナルマウントで、後のミランダと同じものである。
このマウントはバヨネットとネジのダブルマウントだが、同じダブルマウントのエキサクタやコンタックスとは異なるアプローチである。
レンズはテッサー50mmf2.8。オリオンのオリジナル設計の鏡筒に エキサクタのZeiss Jenaのテッサーを入れてあるようだ。このほかフジカのクリスター55mmf2がクレジットされていたが実際には製造されなかったようでインフォメーションのみであったと思われる。

産業考古学的にも貴重なカメラと考えるが、もし、ミランダTが発売されなければ、当時沢山あったベンチャー系の一眼レフ試作機の1つとして世間からはとっくに忘れ去られていただろう。以前このサイトで「…2台あるという記述もあるが倒産のときの紛失時に混乱したのではないか?」と書いたが、社長室に2台あったと言う証言もあったことも書き記しておく。
少なくとも1台が現存しており個人所有となっている。

*大塚新太郎[名古屋大学名誉教授(元工学部航空学科原動機講座)1922-2005]

 

写真工業誌掲載の1954年6月号「プリズムレフフェニックスについて」より

日本で最初のペンタプリズムを使った一眼レフカメラで、オリオン精機時代の1954年に発表されたミランダの前身である。
他社に先駆けて発表するという最大かつ危急の大命題があったがために、こじんまりとしたスペックに甘んじたわけだが、計画上では超高級機が想定されていた。
フォーカルプレーン1/1000シャッター、クイックリターン、自動絞り、大口径レンズ採用などなど、後のニコンFのようなカメラを思い浮かべれば判りやすいだろう。
国産カメラの中でも、工業史的にも重要なカメラと位置づけられるはずだが、一般展示された事も無く、正確な情報にも乏しいのが現状だ。
社長の荻原 彰による記事、写真工業誌掲載の1954年6月号「プリズムレフフェニックスについて」と30年後に明らかになったことを元にフェニックスの概要をまとめてみた。

*この記事は、いわゆる「提灯記事」、いわゆるステマのようなものである。開発資金参加を募る『企画書』という意味合いの記事だったそうである。
自画自賛なのは、この記事の性格のためだが、まさに『夢のカメラ』といった概要である。
ともあれこの記事が出てから『ミランダ』計画は順風満帆、無事に発進したのであった。

フェニックスの概要

画面サイズ
24x36mm
フィルム・ディスタンス
41.46mm

「ライカのように握りよい、エキザクタのようにふくらんでいない、レクタフレックスやプラクチナのように大きすぎないボディー」ということで、既存機種であるアサヒフレックスかペンタコンくらいの大きさを目指したという。しかし、参考にしたアサヒフレックスのサイズは若干小さすぎ、生産型ではサイズを換え、大きくすることになった 。


当初からシステムカメラとして計画されていたフェニックス

ミラー
組み立て後も容易になっていて調整、メンテナンスがしやすい。

*当初の計画では、クイックリターンの組み込みも視野に入っていたようである。
だが、自社独自の*クイックリターンミラーの特許は、未成熟の技術を使うことのリスクを嫌って使われなかった。(*1947年に出された、特許願 903号「レフレックス・カメラ」、まだまだクイックリターン機構が一般に認識されていなかった時代である)

未知の危険要素を組み込むよりも、まずは堅実に『動く』カメラを目指したわけである。
ミラーの解放方式は、タイムラグが小さいエキザクタタイプで、レリーズ後ミラーが跳ね上がり、ミラーが上死点にさしかかる寸前シャッターの掛けがねが外れ作動を開始する。
上死点付近にシャッターの掛けがねとシンクロのベロがあり、これがショックアブソーバーの役目を果たす。
シャッタードラムは二つ、スローガヴァナーはライカの逆向きにしてあり底蓋をはずして簡単に調整が出来る。

シャッター
布幕フォーカルプレーン・シャッター
B、1秒から1/500
ライカ型シャッターの改良型でスローでのガヴァナーの作動時間が比較的長く1/10でも正確さを保てた。また エキザクタのウィークポイントであった、撮影のたびにスローノブ(スローシャッターのチャージを指すと思われる)の巻き上げをする必要がないようになっている。

巻き戻しノブ
周囲にフィルム感度と種別(ASA/B&W/カラー)が表示されている。

シンクロ接点
X,Mがボディー前面に並ぶ

ミラックスと同じマウント
採用。外側に4本爪のバヨネット、内側に44ミリのネジマウント
マウントの取り付け部分は強固な枠を持っていて狂いが出ないようになっている

ファインダー交換式
プラクチナを参考にガイドレールに沿って後ろからはめる。エキサクタのようにはめ込み式ではピントグラスにずれが生じるため、これを回避する構造を取ったのである。

コンデンサレンズ
下面をマット状の磨りガラスにしたピントグラス兼用 。

レンズ 50mmF2.8
記事ではとくに多くは触れられていない。
"Zeiss"の銘がある事からエキザクタのテッサーを利用したようだ。
58mmF2の計画があった。生産型のミランダTにはフジのクリスター 5cmf2も候補に挙がっていたが実際に採用されたのはズノウ50mmf1.9であった。
デザインはハッセルブラッドのプリセット絞りを改良して、リングを押し下げなくてもセットでき、中間絞りが無段階でセットできるもの。
最短距離は17インチ。これはB5くらいの大きさ(14X21センチ)まで寄れ、本の複写は目で見ながら可能となり、ライカのような大掛かりな複写装置を必要としない。


*雑誌掲載の図を元に新たに描き起こした


あまりに机上のみの計画発表が続き、カメラ雑誌では『お化けとペンタレフの一眼レフ、どちらも本当には出ません。』などと一眼レフをそう揶揄していたほどで、このフェニックスも企業の試作品とは言え、世間の見る目は個人的な手作りカメラの域は出ていなかったと思われる。
ともあれ、この動く現物、フェニックスは大きな起爆剤となりオリオン精機がカメラメーカーへと発展する大いなるステップとなったのである。

ボディーには『アサヒフレックス』が利用されている、という説はクラシックカメラ専科紙上で最初に書かれた。写真で見る限りだが、アサヒフレックスとフェニックスはレイアウトが異なるのがわかるはずだ。実際には裏蓋のみを利用したようである。
フェニックスのボディー自体は削り出しである。

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Histories of Miranda Co.

Miranda Camera History Ver 1.6

 ミランダは国産システム一眼レフカメラの草分けでありながら、国内販売されていないモデルも多く、いまとなっては謎の多いメーカーです。
1/1000シャッター、着脱式ペンタプリズム、多彩なアクセサリーなどなど、システムカメラとして不足のないスペックで、1950年代半ばの黎明期、一眼レフをリードする存在でした。

現在あるカメラメーカーのほとんどは戦前に創業していますが、ミランダは第二次世界大戦後に焼け跡の東京で興ったメーカーで、東京大学航空研究所に籍を置く、若い科学者が作り出したカメラです。
いわゆるベンチャー企業ですが、キヤノンとは違い、創業者自身、研究者であるところがミランダの重要なポイントで、創業時からしっかりとした技術と設計思想に基づくカメラを造った点でも抜きんでており、当時乱立した四畳半メーカーと呼ばれるカメラメーカーとは一線を画していたでしょう。

 ミランダは今の目で見ると少し変わったデザインです。エキザクタのようにボディー前面にシャッターボタンがあり、コンタックスのように12角形のボディー形状、着脱式ペンタプリズムはプラクチナのようなリリース方式です。
さらに特異なレンズマウントを持っており、ねじマウントの外側にバヨネットマウントがあるというダブルマウント、内径は44mm径でエキサクタなどのアクセサリーと同じ径であり、またライカ判の対角線長を充分に内包するサイズでした。
また、プラクチカ、ペンタックスのネジマウントより大きいため、変換リングを利用するとM42マウントのレンズアクセサリーもそのまま装着する事ができました。

 当初、ミランダには自社製のレンズは無く、f1.0の超高速レンズで気を吐いたズノウなどレンズメーカー製のレンズと、マウントアダプターを利用して既存カメラメーカーマウントのレンズでシステムを構築しており、使用可能なレンズは当時600種以上(広告による)、ほとんどの一眼レフ用のレンズを無限遠から使用できましたし、ライカ、コンタックスマウントの変換アダプターも用意され、文字通り世界中のレンズが使えました。

ミランダが発表された1950年代、国内では一眼レフ自体がまだまだ特殊な存在でしたが、好調な輸出にささえられてミランダは順調に発展していきます。

 戦前からあったカメラメーカーと違い、名も知らぬ新興メーカーのカメラでは問屋でも扱いかねると言うことで、ミランダの販売には苦心したようです。
このころのカメラ雑誌上での広告も細々としたものを感じます。
一時、リコーと業務提携がありました。リコーの社員には「なぜウチのカメラを差し置いて他社のカメラを売らなければいかんのか?」という不満もあったそうですが、この頃販売されていたミランダSが比較的多く中古店に現れる事などから、ミランダはリコーのチャンネルでよく売れたようです。

ところが、 昭和三十年代のミランダは未だ生産規模も大きいものではなく、ミランダは国内販売分の生産が確保できなかったという理由で1959年の末頃から全生産を輸出に向けることになります。
しかし、この説明は少しおかしいところがあります。
というのも1960年には雑誌紙上でこんなインフォメーションも見られたからです。「新型のダイカストボディーの開発と新工場設立により生産能力も上がり」というものです。生産量は飛躍的にのびている、というのですが…。海外の販売代理店との契約のためもあったのかも知れませんが、ちょっと変な話です。

また、社外スタッフによる新しいコンセプトの、当時としては画期的な一眼レフ、オートメックスの発表は国内ではされていません。このほか、新型のミランダD が発売されるなど、躍進の年でもあるようなのですが、これら二台の新機種は日本国内では発表されませんでした。
カメラ雑誌では1960年発売のオートメックスの紹介記事を最後に、1964年まで国内でのデモンストレーションは無くなりました。

 十分に既存メーカーの国産一眼レフが出揃った1964年(年末?実質1965年から)になって国内販売がいよいよ再開されました。
ですがこの時、一眼レフカメラはTTLが主流になりつつあり、国産他社の新鋭機種と比べると、ミランダはどれも時代遅れで、すでに一昔前のカメラとなっていました。
しかし、 新製品の開発は停滞気味ではあるものの、レンズの自製化もはじまり、経営上はうまくいっているように見えましたが、新たな危機が忍び寄っていました。
1965年の国内販売再開から3年たった1968年に、米国に本拠をおくミランダの有力な販売代理店、A.I.C がミランダの株式を100パーセント取得し、創業者の手から完全にはなれることになったのです。

ミランダには新しいラインが次々に打ち出され、A.I.Cに経営権が移譲されて以降も低廉で機能的なカメラを求めるユーザーにミランダは確固たるシェアをもっていましたが、1976年の年末も押し迫った12月、A.I.Cからの資金が突如途絶え、ミランダは突然終焉を迎えました。
ミランダの倒産以降、国内のカメラメーカーの倒産が相次ぎ、後に「技術革新に乗り遅れたメーカーが淘汰された」と分析されています。

海外ではA.I.C によって在庫分が倒産後も売り続けられたようです。
わずか20年余で途絶えたメーカーですが、戦後に興った中小メーカーのなかでも大成功した企業として戦後の工業史に太字で記されるのは間違いないのではないでしょうか。 

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